フェミニズムの問題点~なぜフェミニズムは嫌われてしまうのか~

こんにちは。文系大学院生のandrewjacovsです。今までは音楽や映画の評論をしてきましたが、政治についても論じていきたいと思ってます。今回はテーマをフェミニズムにしました。

私は以前からフェミニズムの思想、具体的には男女平等を目指す姿勢に非常に共感してきました。その意味では私もフェミニストなのだと思ってます。しかしながら一方で、いわゆる「フェミニスト」たちの言説によくわからない不快感を持っていたこともまた事実です。そして、これがあくまで個人的な感情ならいいのですが、日本全体の中でアンチ・フェミニスト的な考えが広まっているように思えたので、この不快感はある程度普遍性を持った感情なのだと思いました。これが今回フェミニズムを論じたいと思ったきっかけです。

なぜ「フェミニズム」は嫌われてしまうのか。男女平等を目指すことに対して、反対意見を持っている人は以前よりも確実に減っています。明らかに、男女平等が良いということはほとんどの人に共有された価値観ですし、実際表向きの法律の面では、差異はほとんどありません。それなのに、「フェミニズム」は嫌われます。なぜでしょうか。崇高な共有された信念をフェミニズムが説得的に供給できていれば、このような事態は起きないはずです。そこには、フェミニズムが抱えるなんらかの問題があるはずです。

フェミニスト」の主張は、女は不当に差別されてきており、男に抑圧されてきた存在であり、そしてそれは男が悪い、というもののように見えます。この主張の前半部分を否定することはまったく正当性を持たないことです。たまにこの部分を否定する人がいますが、その人は非常に明確な差別主義者です。歴史的に男が女を抑圧してきたことは疑いようがないですし、女への人権意識は著しく欠如していました。

しかしながら、この主張の後半部分、すなわち「男が悪い」という点は明らかに重要なポイントを見おとすものです。たしかに男は悪いです。しかしそれと同じくらい女も悪いのです。フェミニスト」たちのこのような主張は非常に単純でわかりやすいものです。だから、問題意識を持っている人に響きやすい。それゆえ、運動を広げていくためにはこのような言説を流布することは極めて有効です。ですが、これは「フェミニスト」たちの悪しき甘えです。フェミニスト」たちの「男が悪い」という主張が持つ構造は、ある悪しき事象の裏には、糸を引いている人物がいる、というものです。今回であれば糸を引いているのは男だ、というわけです。しかし、もし裏で意図を引いているのが男であるなら、これほど簡単な問題はありません。明確に差別主義的な男に説得を試み、応じなければ社会的に排除すれば良いからです。

フェミニスト」たちが見落としているのは以下の点です。つまり、差別を根源的に産んでいるのは悪意を持った人物ではなく、まさにこの世界の体制なのだ、ということです。私は先程表向きの法律に差異はなく、男女平等の価値は共有されていると述べました。それなのに差別がある、ということが非常に肝要な点です。つまり、明確な差別主義者がいないとしても、差別は起こるということです。差別を生むのは黒幕的な他者ではありません。それはこの社会と世界を包む体制なのです。

体制とは何か。それは私たちそれから馴致されるものであり、また私たちが作るものでもあります。私たちが社会から得た価値観を、私たちは無意識的に反復しています。私たちは制度からある価値を受け取り、その価値を再生産していきます。体制に作られ、体制を作る存在が人間です。

これまでの差別についての研究では、被差別者が差別者に転じてしまうことが注目されてきました。日本人から差別されているフィリピン人が、バングラデシュ人を差別する、というのはまさにこのモデルです。つまり、被害者が加害者になりうる、ということです。しかしながら、この逆の論点もあるのです。つまりは加害者もある意味では被害者である、ということです。私たちは体制に縛られた存在である、という意味で被害者です。しかしながら、体制の維持に加担しているという点では加害者です。男は不当な価値観を再生産していますが、不当な価値観を植え付けられてもいます。女は不当な価値観を押し付けられますが、不当な価値観の維持に貢献してしまっています。男も女も加害者であり、また被害者でもあります。

そして不幸なことは、この価値観をめぐる一連のプロセスは無意識に行われているという点です。だから、ほとんどの人は明確な差別主義者ではないのに、この社会では差別が残るのです。

フェミニスト」たちは、男たちは豊かな人生を享受しているという幻想を幸か不幸か持っています。「フェミニスト」たちは女たちは飼い慣らされた犬のようだと言います。男に尻尾をふり、男の機嫌を取ることで生きていくしかない存在であると。これはある意味では正しいですが、重要な点を見落としています。それは男も犬だということです。「フェミニスト」たちのいう豊かな人生などありません。フェミニスト」たちは、女は人間らしい生を送る必要があると言います。しかし、この時点で人間らしい生があることを前提しているのです。しかしそんなものはどこにもありません男は女を飼い慣らしているかもしれません。しかしながら男はある意味で飼い慣らさせられているという側面があります。一方で、女が男に飼い慣らしを強制させている面もあります。

このような「ねじれ」構造は具体例がたくさんあります。ミスコンと女子アナの結びつき、男が奢る文化、育休の取得率の差異。こうしたものは男と女が生み出した産物でもある一方で、男と女が押し付けられた価値観でもあります。

そして、「フェミニスト」たちの主張はまた社会に不幸な価値観を植え付けようとしています。フェミニスト」たちは単純でわかりやすい、非常に誤った見解を流布することで自分たちの感情を理論的に正当化しようとしています。しかしながら、幸か不幸か、多くの人はこのような見解は明らかに誤りを含んでいることにも気付いています。このことから「フェミニスト」は感情的で、議論を行うことができない人、というイメージが間違いなくできています。ここから、女は感情的で馬鹿げたことしか言えないのだ、という遥かに誤った見解が社会の中で生産されていきます。そしてこの誤った価値観は、体制の中で維持され次の世代に受け継がれていくことになるでしょう。そしてこの価値観がまた次の世代を縛るのです。フェミニスト」たちの仕事は全く逆効果です。フェミニストたちが最初にすべきだったのは、こうした「フェミニスト」をしっかりと手を切り、自分たちは問題の本質を見極めていると主張することでした。しかし、運動の拡大に目が眩んでしまったのです。そして今や、フェミニズムはその本来の意味を失い、「フェミニズム」にとって変わられつつあります。感情的でわかりやすい言説が、本質的で理性的な言説からその単語を奪い取ってしまったのです。フェミニズムは死滅しました。残ったのは「フェミニズム」です。そしてこれは今や、社会においてある種の「差別主義者」と同じ意味しか持たなくなってしまいました。フェミニズムの崇高な理念はこのような差別主義から手を切るべきだったのです。悪貨が良貨を駆逐してしまったのです。それゆえ、フェミニズムの中心部分は問題がないどころか崇高な理念に基づいていたのに、フェミニズム全体が問題だ、とみなされるに至ったのです。

※「フェミニズム」「フェミニスト」といった鍵括弧付きの用語は鍵括弧なしの同語と全く異なる意味を持っている点には留意をお願いします。