民主主義の問題点とこれから

こんにちは。文系大学院生のandrewjacovsです。最近少し忙しくて更新がかなり滞ってしまいました。今回は2回目の政治系の記事です。前回はフェミニズムについて論じましたが、今回はもう少し幅を広げて民主主義について論じていきたいと思います。今回民主主義について語りたいと思ったのは、アメリカ大統領選挙が実施されている今、民主主義をもう一度見つめ直すのによいタイミングだと思ったからです。

 

民主主義は、現代の多くの国で採用されており、なおかつ好意的にとらえられることの多い政治システムです。一方で、民主主義の崩壊が叫ばれ、20世紀最悪の時代の一つである1930年代へ接近していると指摘されるなど、民主主義は現代では問題となっていることも事実です。民主主義に対して私達はどのように考えるべきなのでしょうか。

 

民主主義を良く表わしている金言として、まず以下のチャーチルの発言から始めたいと思います。

 

It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.

(訳:民主主義は最悪の政府の形だと言われてきた。もっともそれはこれまで試されてきた他の形を除いて、であるが。)

 

裏返せば、この発言は民主主義が既存のシステムの中では最良のシステムだということを述べています。なぜかといえば、それが絶対的な正しさや幸福や利益に近づく最良の方法だからです。私達の認識能力は非常に限られています。私達は未来のことを全く知ることができません。政権が実行する施策が、本当によい未来を提供するのか、私達は判断することはできません。しかしながら、私達は現段階で未来を予測することはできます。私達は絶対的に正しい政策など選択することはできません。しかし、おそらく正しいと考える政策を、実現することはできます。しかし、その際の正しいという予測は個人的なものであればあるほど、誤りやすくなります。また、個人にとってのよい未来が、多くの人にとっては悪い未来なのかもしれません。だから、個人の予測に従って政策を履行することは多くのリスクを伴います。ここで、民主主義の持つ大きな利点が明瞭になります。民主主義をとり、多くの人の意見を募ることで、私達は予測の正確性を高めることができます。また、多くの人にとってよい未来の実現に向け、進むことができるようになります。

 

しかしながら、このような民主主義の性質は多くの問題点を抱えています。それは、2016年のアメリカ大統領選挙において顕著になった問題です。すなわち、民主主義では多数派に媚びることで勝利を手に入れることができるという点です。民主主義の中心的な原理は「多数決の原理」です。民主主義においては、多数決の原理により、正確性を高め、多くの民意をすくいとることが可能です。一方で、選挙においては、マイノリティを相手にせず、マジョリティに媚びることで、勝利という目的は原理上実現可能です。ドナルド・トランプが当選したという事実がこのことを裏付けます。あるいは、ヒトラー政権の誕生を考えてもよいと思います。この点から分かるように、独裁制と民主主義は決して対立しているわけではありません。民主主義により正当化を受けることで、独裁制は誕生します。両者の間には避けがたい連続性があります。史上最悪の独裁政権の一つであるドイツ第三帝国が、当時最も民主的な仕方で政権運営を行っていたワイマール共和国から誕生したという事実は示唆的です。

 

このような分析に対しては、私達に光を照らしてくれるような、一つの指摘が存在します。それは、私達の判断は完全に自分や自分たちの属する共同体の利益のみを考えているわけではない、という指摘です。端的に言えば、良心という光がそこにはあります。多くのマジョリティは、マイノリティを排斥するような政治家の発言に、直感的に嫌悪感を持ちます。たとえ自分たちが利益を得たり、不利益が生じないとしても、マイノリティを排斥する発言を多くのマジョリティは許しません。

ここで重要なのは、このような非常に攻撃的な発言や政策と、そうではない発言や政策の違いです。例えば以下の二人の政治家の政策を見てみましょう。

 

政治家A:経済政策①をとろう

政治家B:経済政策②をとろう

 

この二人においては、どちらを支持することも問題なく思えます。むしろ、政治家Aと政治家Bを支持する人が双方いるということが健全な民主主義であるようにさえ思えます。しかし、政治家Cが以下のような発言をしたとしましょう。

 

政治家C:民族①を排斥しよう

 

一般的に、このような発言は決して許されるものではない、たとえ否決されるとしても、この政治家Cを支持する人はやばい、おかしい人だ、と思うわけです。要するに、私達は政治家Aや政治家Bの政策は考慮に値するものであるけれど、政治家Cの政策は、考慮に値しないものだ、と考えているわけです。これが良心の光です。たとえ、民族①の排斥が、民族②にとって実質的に利益になったとしても、理性的な民族②の人物はこの政治家Cを支持することはないと、私達は考えます。私達は良心の光に照らして、利益や快楽、幸福に基づき政策を選択することに先立って、その政策が「真正」なものかどうか、議論の土俵にのせてよいものかどうか、を判定しているのです。この良心の光は、民主主義の先述の問題点を解決してくれるのでしょうか。

私は、正直に言えばそうでないと思っていることを白状しなければなりません。最大の問題は、真正なものかどうか、は誰が決定するのか、ということです。私達はpost-truthの時代に生きています。「真理」は信じられない時代です。「真正」は読んで字のごとく、「真に正しい」という意味です。しかし、「真理」が消えてしまった今、「真に」「真の」といった、「真理」を副詞的・形容詞的に用いている語も消えていることになります。「真正」は手に入らないはずです。さらに言えば「真理」を獲得することができないのが民主主義の正当化の前提だったはずです。「真理」に近づくための民主主義が「真理」を前提することは許されないはずです。このように考えるなら、政治家Aや政治家Bの政策と、政治家Cの政策を区分していた「真正性」という基準は消失することになります。

 

この基準の消失に対抗する措置は、「真正性」は本物ではなく、私達の直感によるものなのだ、という路線をとることです。つまり、政治家Aや政治家Bの政策と、政治家Cの政策を区分するのは、私達の直感によるのだ、という主張をとることです。この路線は非常に妥当であり、受け入れやすいものですが、一方で民主主義の正当性を著しく弱める路線だということも理解しなければなりません。私達が判断において用いる「真正性」の基準はあくまで直感にしか与えられないということは、民主主義がもたらす結果が、私達の直感に大きく左右されるということです。しかし、私達の直感は狂いえます。「狂う」というと正確ではないかもしれません。「狂う」という言い方には「正常な」状態があることを意味するからです。より適切に述べるならば、私達が明らかに求めていないような帰結をもたらすような主義や政策を、正しいものとして選択してしまうような、そういう直感が存在しうる、ということです。先述したヒトラー政権の誕生はまさにこのことの最たる例にも思われます。

 

民主主義は私達の限られた認識能力の中で真理と幸福を求める手段です。しかし、その選択や判断のプロセスには「正しさ」を持ちだすことはかなりの困難があります。ということは、反対に述べれば、私達の判断や選択に付着しているのは直感に他ならないということです。このことを私達は認めなければいけません。私達が民主主義に対してこれからとるべき態度の一つ目は、まさにこのことを認めることです。十全な信仰は十全な疑いの上でこそ成り立つものです。キリスト教の真の信仰者は聖書を盲目的に信ずるものではなく、聖書に疑いをかけながら、それでも積極性を持って聖書を信じるような人物です。もっと言えば、明日キリスト教を信じることができるかわからないと日々思い、戦々恐々としながらも、それでも聖書の矛盾や問題点を探し、解決する姿勢を失わない人間です。民主主義を信じるためには、民主主義の持つこの問題点を自覚し、その解決を常に考えることが必要です。

私達がすべき二つ目のことは、民主主義に代わるシステムを常に探すことです。先述したチャーチルの発言は、裏を返せば、民主主義が既存のシステムの中で民主主義が最善である、ということを示しています。しかし、チャーチルがこのような語り方をしなかったということが肝要です。要するに、チャーチルは民主主義のよさを述べ立てるのではなく、信じられている民主主義は欠陥だらけである、ということを強調しています。民主主義は手段であって、目的ではありません。民主主義を守ることが目的化した社会は非常に危険です。現状民主主義が最良であると認めることと、民主主義を超えるシステムがあると信じることには、何の矛盾もありません。この態度を失ってしまった場合、私達は民主主義を自明の理、絶対的な体系とみなすことになり、私達の心は離れているのにもかかわらず、民主主義という制度だけが残存することになります。これはまさに衆愚政治そのものです。衆愚政治の誕生は、民主主義の崩壊によって生まれるのではなく、形式的な民主主義への信仰によって、婚外子としてではなく、正当な子供として誕生すると認めることは、その母たる民主主義を操る私達の責任なのです。

 

※この文章で用いられている「直感」の意味は一般的な意味よりも広いと思います。例えば、過去の政策の成否に訴えかけて、政策を選択するような場合も、直感による選択の1ケースです。

※多くのマジョリティは、マイノリティを排斥する発言を許さない、という良心についての記述がありましたが、必ずしもそうではないことは認めなければなりません。一方で、このような場合があるということは、その後の私の主張を強めるものでもあります。譲歩節の中の反例は主張の一部としてカウントできるからです。