【映画「エレファント(Elephant)」(2003)考察】 優れた不快感

どうも。文系大学院生のandrewjacovsです。今日からブログを始めました。映画や音楽、政治、歴史についてなどゆるく語っていくつもりです。

 
記念すべき1回目として、映画「エレファント(Elephant」(2003)について論じたいと思う。
第56回カンヌ国際映画祭パルム・ドールと監督賞を受賞しました。アメリカの高校での銃乱射事件を様々な人物の視点から描いた映画です。モデルとなっているのは1999年に起きたコロンバイン高校銃乱射事件だそうです。
 

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正直言って私はこの映画があまり好きではない。パルム・ドールを受賞したということもありとても期待値が高かったのもあり、観終わった時の感想も「なんだ、こんなものか」というものである。多くの観客が評価する点は、様々な立場からの視点を重層的に組み合わせて一つの物語を表している点であるが、この手法自体も特段目新しいわけではない。
しかしながら、私が抱いた感想が「つまらない」ではなく、「好きではない」というものだった点が非常に面白いことなのではないか、と最近思えてきた。基本的に世の中につまらない映画はたくさんあるが、「好きではない」という評価を映画に下すことは少ない。映画の「好き嫌い」を判断するためには、その映画に対して能動的に理解しようとしなければいけないからである。基本的に「つまらない」映画は観る気を失せさせるので、能動的な視聴を不可能にする。そのため「嫌い」という評価にたどり着くことさえできない。
 
考えてもみて欲しい。銃乱射事件という凄惨な事件を映した映画に対して「好き」という感情を抱くことはおかしいことである。つまり、銃乱射事件の真実を本当に伝えたいのなら、観客に「好き」という感想を抱かせた事件で敗北である。銃乱射事件に対して抱く感想と映画について抱く感想が真逆になるということは、あくまで映画が虚構であることを観客に自覚せしめるような出来に映画がなってしまっているからである。
 
「エレファント」が突きつけるのは徹底的な不快感である。そこにある全てが不快である。そこには虚構に満ちたヒロイズムもなければ、銃乱射に至る必然的な理由は描かれない。どこにでもいる高校生が、銃乱射の犯人となりうることをこの映画は示しており、銃乱射の犯人が特異な存在ではないということが気づかされる。
 
我々は銃乱射事件が起きると、恐れを抱く。それ自体は当然なことだ。その結果我々は自分とは切り離された存在として犯人たちを理解しようとする。我々は隣に普通に座っている人物が急に銃乱射に及ぶかもしれないことを恐れているのである。さらに言えば、自分自身が銃乱射に及ぶことすら、恐れているのかもしれない。その結果我々は犯人たちを客観的なものとして対象化しようとする。銃乱射に及ぶ人物にはいかれたわけがあるのだ、奴らが俺たちとは異なる存在になってしまったのには、何か根源的な理由はあるはずだ、と考えるわけである。マイケル・ムーアはまさにこのことに気づいていた。彼は「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、銃乱射事件の与えられた理由付けはどれもくだらないもので、それらの理由は、ボウリングをしていたから銃乱射をしたのだ、という非常に馬鹿げた理由と同じくらいの説得力しか持たないものだと立証した。彼は銃社会の問題点にそこから目を向けた。銃乱射を行った犯人がおかしいのではなく、銃乱射事件を可能にしてしまっている状況に目を向けたのである。「ボウリング・フォー・コロンバイン」はドキュメンタリー映画なのだから現実を描写し、物事の根源を理解することが肝要であるからして、これは当然の流れである。しかしながら「エレファント」はドキュメンタリーではないので、より自由である。「エレファント」は「ボウリング・フォー・コロンバイン」の一歩手前で立ち止まることで、より強烈な印象を観客に植え付ける。だからこそ私はこの映画を二度と見たくないと思うわけであるし「嫌い」というはっきりした感情を持つことが出来る。
 
加えて「エレファント」が優れているのは、映画が観客に不快感を植え付けるだけではなく、観客がこの映画を見ている自分に不快感を覚えるような仕掛けがなされているからである。それはこの映画の持つ時間性ともかかわっている。ここでは長くなるので、また今度。

 

filmarks.com   「ボウリング・フォー・コロンバイン」はこれです!☝